眠れない。
堅い寝台の上で長い髪を滑らせながらニレアは寝返りを打った。
名前を聞いたあと、男は酒場と併設している宿に2つ部屋を取りニレアを片部屋に追い払った。もう一部屋は男が使うのだろう。
……指輪の持ち主が生きてるって、どういうことなんだろう……。
結局返してもらえなかった指輪を思いながら唇を噛む。
お母さんは6歳の時に死んだ。生きてるはずがない。
なら、誰が生きてるの?
指輪の持ち主って誰なの?
考えても判らないことだらけだ。
そして、ここはどこなんだろう。
男の後を付いて歩いてきた道は、見たこともない景色だった。こんな場所私は知らない。
急に寒さを感じて毛布を引き寄せる。
大丈夫、目が覚めたらきっと元通りになってる。そしたら、変な夢を見たってお兄ちゃんとスフィラに話そう。
ぎゅっと目を閉じて眠りに落ちるのを待つ。
全て夢であるように願いながら。
がたり、という音で目が覚めた。
視界に飛び込んできたのは、いつもの自分の部屋ではなく、机と椅子があるだけの殺風景な部屋。
ここ……どこだろう。
ぼんやりと考えて、眠る前の記憶が少しずつ蘇る。
……あれば、夢じゃなかったんだ。
ぎゅっと一瞬強く目を閉じる。起き上がり、シーツをたたみ、ぱた、ぱた、と扉に向かう。
眠っていた部屋は2階で、扉を出れば吹き抜けになった酒場を見下ろせる。そこに黒衣の姿を見つけて急いで階段を降りた。
目深にフードを被り、昨日と同じ席に荷物を傍らに置いて後ろに身を投げ出すようにして座っている。 テーブルの上にはパンとスープの簡素な朝食。
ニレアが恐る恐る向かい側の席に腰を下ろすと、あまり間を置かずに同じものが厨房から運ばれてきた。
……これ、食べて……いいのかな。
暖かい湯気と美味しそうな匂いに、急にぐうっとお腹が空いてくる。
かちゃり、という音に目を上げると、男はニレアを見ることもなく朝食に手を伸ばしていて、無言で促されるようにニレアも朝食を食べ始める。
言葉のない食事。
男の雰囲気は冷たい氷のようで、どう声をかけたらいいのか……。
朝食も食べ終わってしまい、気まずい沈黙だけが2人の間に横たわる。
「……あ、あの……」
勇気を振り絞って声をかけようとしたその瞬間、がたり、と男が立ち上がった。
少ない荷物を取り上げ、ニレアに目もくれず、何も言わずに扉に向かう。
言葉を切られて呆然とその背中を眺めていたニレアは、扉の閉まる音にハッを我に返って大慌てで後を追った。
ゆるやかな下り坂。男は振り返りもせずに歩いていく。
少し離れた後を、どうしたらいいのか判らないまま、ニレアも付いていく。
朝日を浴びた見慣れない街並み。
振り返れば新緑の鮮やかな山、目前には青く輝く海。
ここ……どこ?
全く見たことのない景色に言葉を失う。
男の足は速くて、見失わないようについていくのがやっとで。 気がつくと、レンガで舗装された広場のような場所を歩いていた。
あちこちに出された屋台には新鮮な魚や果物、様々な品が積まれ、賑やかに声が飛び交う。
人ごみの中、離れると見失いそうで、ニレアは男の数歩後ろをただついて歩いてゆく。
と、その時、男が急に立ち止まった。
「きゃん……っ!」
早足で歩いてきた勢いが余ってまともに顔から男の背中に突っ込んでしまい、そのままぽてっとしりもちをつく。
「いたぁ……」
何でいきなり止まるの〜、と見上げると、冷たい青の瞳がニレアを見下ろしていた。
「……いつまで付いてくる気だ」
「い、いつまで、って……」
目の前の男の手に光る、母の形見の指輪。座り込んだままニレアは指輪に手を伸ばす。
「返して……っ」
ふい、と手は引き上げられ、釣られるようにニレアも立ち上がる。
「くどい」
「だって……っ!」
荒くはないが冷たい男の口調に、叱られているようだと、ニレアの顔がくしゃっと歪む。
「お母さんの指輪だもん……っ! 返してよお……っ!」
ぽろぽろと大きな茶色の瞳から涙がこぼれだす。
何かがぷつんと切れたように、ふえっ……と泣き出したニレア。これには表情の変わらない男もさすがに少し目を見開いた。
何だ何だと周りの人間も泣いているニレアに注目する。
返してくれるまで諦めない、と無言のアピールをするニレアに、微かにげっそりとした表情を見せる男。
「……」
くるりと男はニレアに背を向けた。
「……」
その後姿が、少し天を仰ぐ。
「……勝手にしろ」
言葉を残して歩き出す。
えくえくっ、と泣きながら、男の後姿をニレアは追う。
何本ものそそり立つ太い柱。柱を繋ぐロープと、たたまれた大きな帆。男の向こうには、日を受けて輝く、見たこともない大きな船の姿が見えた。
(UP date 2007/2/10)
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