白い大きな帆がいっぱいに風を受けてはためく。
海面を割って進む船体を打つ波音。鳴き交わす海鳥の声。突き抜けるような雲ひとつない青空。
デッキブラシを手にニレアは空を仰いだ。
……何で、こんなこと、してるのかなあ……。
泣いているニレアを背に「勝手にしろ」と吐き捨てて、男が振り返りもせずに向かったのは目の前に停泊している大きな船。慌てて後を付いていくと、船にかけられた桟橋の下に立っている乗組員の男と何やら話をして、1人さっさと桟橋を上っていく。
「ま、待ってよぉ……っ!?」
男を追って桟橋を上がろうとすると、ぐいっと腕を掴んで引き止められた。
「待ちな、お嬢ちゃん」
乗組員の男が眉間に皺を寄せて立っている。
「タダ乗りする気かい? 先に金を払ってくれ」
「……へ?」
きょとんとした表情で乗組員を見て、黒衣の男を見上げて。
お嬢様育ちのニレアに、自分で乗船料を払うという考えは、……全く、ない。
「だって……」
黒衣の男を指差しながら「あの人と一緒に」と口にした瞬間、上から声が降ってきた。
「そいつは金を持ってない。船代わりに好きなように使ってくれ」
え!?
ギョッとするニレア。
そんな、私、働いたことなんてないのにっ……!
「こんな嬢ちゃんが使い物になるかって」渋い顔をした乗組員の手に大きく弧を描いて落ちたのは、小さな皮袋。
「足りない分はそれで埋め合わせてくれ」
言い放つと、男はさっさと船上に上がってしまい。
「……あんたはこっちだ」
皮袋の中身を確認した男は、渋い顔のままニレアを船の内部へと案内した。
慌しい厨房の隅で、最初にあてがわれたのは、大樽いっぱいの芋の皮むき。
初めて使うナイフを片手に芋と格闘した挙句出来上がってきたのは、原型の半分位の大きさになった芋と、散乱した異様に分厚い芋の皮で。
3つ剥くだけで切り傷だらけになったニレアの手に大きくため息をつき、料理人はニレアを甲板へと追い出した。
甲板でとりあえずデッキブラシを渡され、甲板を磨いては綱を結んだバケツで海水を汲み上げて流す、デッキ掃除をすることに。
停泊していた船は夕方近く港を出港し、空に星が瞬く頃、ニレアもやっとデッキ磨きから開放された。
食事は厨房の片隅で、料理人の作ってくれた「まかない飯」を食べた。
ニレアと同じように働くことを条件に乗船しているのだろう。痩せた少年や、おしゃべり好きな年配の女性達。十人程度の人間が狭いテーブルについて食べる。乗り込んで初日、仕事に疲れたのか、誰も口数は少ない。
食事が終ると広間に案内された。一番安い船室なのだろう、たくさんの乗客が思い思いの場所で敷物を敷き、座ったり寝そべったりしている。
入口側奥の角隅、傍らに荷物を置き、壁を背に黒衣の男は座っていた。誰もが座りたがる壁際なのに、不思議と男の周りには誰も座っていない。
おずおずと近づいて、少し迷った後、ニレアはぽすん、と男の横に座り込んだ。
閉じていた男の目が少し開いて、冷たい青の瞳がニレアを確認した後、再び閉じられる。男には何の表情もない。
な……何て話しかけたらいいんだろう……。
男の冷たい雰囲気に、なかなか話しかけることが出来ず、ニレアの口は開いたり閉じたり。
すると、目は閉じたまま、男の口がふっと開いた。
「……何だ」
「あ、あ、……あの……」
男が身に纏う冷たい雰囲気と威圧感に圧倒されっぱなしのニレア。思ってもいない問いかけに別の意味でドキドキしっぱなしで、全く心臓に悪い。慌てて話題を探す。
「こ、この船……どこに行く、の……?」
「どこだっていいだろう」
感情のない声に一刀両断されて、ニレアの大きな瞳が、うるん、と潤んだ。
少し目を開けて、今にも泣き出しそうなニレアの表情に、男は微かにため息をつく。
「……チュレク。……レゾ・ログ、フォーブリック、ウリュイーズ」
3つの港に停泊しながら船が目指すのは、「海と川の出会うところ」大河の河口の三角州に水神アルクレアの神殿の総本山として栄える街、ウリュイーズ。
内陸の入口、交易港の街チュレク。
鍛冶職人の街、レゾ・ログ。
王都、フォーブリック。
「チュレクに寄るの……っ?」
ニレアの家は、チュレクから内陸に徒歩1日半ほどの距離を入った街、サーロにある。
馬なら半日あれば行き返りできる。
(スフィラ、……義兄さんっ……!!)
会いたい、会いたいよ……!
何で、こんなことになっちゃったの?
ぎゅっと抱きしめて、大丈夫だって、何でもないよって、笑ってよぉ……っ!!
こぼれそうになった涙を隠そうと慌てて膝の間に顔を埋め、ニレアは声を殺したまま肩を小さく震わせた。
男は目を閉じ、再び黙り込む。
消灯の声がかけられ、いくつかを残してランプが消され、闇が船室を満たしていく。
慌しい一日が終っていく。
(UP date 2007/5/29)
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