1章<逃亡> ― 7、別離

 
 目を覚ますと、辺りは闇に満たされていた。
 窓際に布を寄せて作られた簡単な寝床の中、窓から差しこむ月の光を受けながら、ぼんやりとニレアは目を開く。
 (私、いったいどうしたんだろう。入れてもらったお茶を飲んで、急に眠くなって、それから、それから……)
 「……が逃げてしまった後に……」
 寝台の方から低く小さな声が微かに聞こえてくる。頭を向けると、闇の中、ぽつんと1つ点した灯りを挟んで、横たわったままのギルニーと椅子に腰掛けたスフィラが話をしているのが見えた。
 「……部屋に入ってきたお前とニレアは、叔父と母が父を殺したと勘違いして逃げ出した、という話になってたよ」
 「何でそんなことに! 執事や他の使用人の証言は無かったのか!?」
 スフィラの話に、信じられない、と首を振るギルニー。
 「誰がどう考えたって賊が入った形跡なんて無いだろう!」
 確かにそうなんだけど、と相打ちを打ちながら、
 「帰ってくる前に、常備薬の補充にかこつけてお前の家に寄ってみたんだが……。ガラの悪そうな男達が出てきて応対してくれたよ。執事はいない、と言ってね。他の使用人も顔を見なかった」
 軟禁されてるのかもしれないね……。と、ため息まじりのスフィラ。
 「……グレサムは、ならず者の親分だからな」
 だから俺はあいつが嫌いなんだ。と、ギルニーが小声で吐き捨てる。
 「母さんと親しくなかったら、あいつなんか叔父と呼ぶものか」
 母さん、と言った瞬間、ニレアの父を殺した時の母とグレサムを思い出し、ギルニーは思わず両手で顔を覆った。
 母は確かに自由で奔放でワガママで、自分もきちんと育てられたとはいえない。だけど決して嫌いではなかった。
 ……あの時までは。
 薄闇の中欲望を剥き出しにしたあの姿を見た今となっては、身体に流れるその血すら忌まわしい。
 許せなかった。
 自分の欲望の為だけに何の非も無い、優しかったニレアの父を殺したことが。
 幸せだった家族を壊したことが。
 人間として許せなかった。
 そして、確かにその母の息子である自分も、許せなかった。
 両手で顔を覆ったまま動かなくなったギルニーのそばで、スフィラはただ黙ってゆっくりと顔を横に振っただけだった。
 大体のことをニレアから聞いていたスフィラは、街に降りた時にその件であちこちにそれとなく探りを入れていた。知った情報はニレアには聞かせたくないことで、だからこそお茶に一服盛ってニレアを眠りにつかせた。朝まで目覚めないように。
 そうして、ギルニーからも事の次第を聞き、その苦悩を知った。スフィラは不要な言葉をかけようとはしなかった。どんな言葉も慰めにはならない。
 しばらく続いた沈黙を破ったのはスフィラだった。
 「……それで、問題はここからなんだ」
 顔を覆った手を解こうとしないギルニーに静かに語りかける。
 「ニレアが狙われている」
 バッと手を解き目を見開いたギルニーを身振りで黙らせ、
 「お前の母の依頼で、グレサムは手下にお前達を探してこいと言ったらしい。表向きは。だが、捜索の本当の目的は、事件の目撃者でルディーン家の血を引くただ一人の子供、ニレアを殺すこと」
 「……口、封じ、か?」
 「そうだ。そしてもう1つ、お前を連れ戻すこと。あんな母親でも実の息子は殺すに忍びなかったんだろう」
 複雑な表情で黙り込んでしまったギルニーを見ながら一呼吸置いて、
 「……ニレアを、いつまでもここに隠しておく訳にはいかない」
 「!?」
 「お前と俺が仲が良いのは親しい者なら誰だって知っている。真っ先にマークされるのは俺だ。判るだろう? ずっと隠しておけるものじゃない。さっきの追っ手はさっさと引き上げてくれたが、あんな間抜けな奴らばかりじゃない。いつかニレアは見つかるだろう」
 口を閉ざしたスフィラの表情は硬かった。
 「……判ってくれ。俺だってニレアをどこかにやりたい訳じゃない」
 そう言って口を閉ざした、その時。
 ガタン!
 物音にギルニーとスフィラがバッと振り向くと、
 「……痛い〜」
 扉の前でニレアが額を抑えて立っていた。どうやらぶつかったらしい。
 「……ニレア?」
 「ん……。お手洗いに行こうと思ったの……」
 この小屋にトイレは無く、用は戸外の茂みで済ますようになっている。
 ぼんやりとしたニレアの言葉に「寝ぼけてるのか。聞いてないだろう」と一安心して、スフィラは扉を開けてやった。
 「暗いから足元に気をつけて」
 「うん」
 目をこすりながら外へ出て行くニレアを見送って、少しでも灯りが見えるように扉を開けたままにすると、ため息と共にスフィラは椅子に戻った。

 降り注ぐ強い光。空を見上げれば満月。
 無意識のうちに手が胸元を探り、首から鎖で下げてある指輪をきゅうっと握り締める。
 それは、ニレアが幼い頃、亡くなる少し前の母から貰ったお守りの指輪。
 様々な色を閃かせる石を嵌めこんだ銀の指輪。
 女物にしては大きいそれを、どうして母が大切にしていたのかニレアは知らない。だけど、「きっとあなたを護ってくれる」という母の言葉と大切な形見として、鎖に通していつも身に着けている。
 (私がいると、義兄さんやスフィラに迷惑がかかってしまうの?)
 自分がいるだけで大好きな人に迷惑をかけてしまう。それが辛かった。
 (どうしたらいいんだろう)
 (どうしたら、義兄さんたちに迷惑かけないだろう)
 「わかんないよ……」
 呟いて、ぐいっと乱暴に手のひらで目をこすった、その時。
 がさりと背後の藪で何かが動いた。
 「? ……っ!?」
 とっさに何が起こったのか判らなかった。
 振り向いた瞬間塞がれた口。ぎり、と捕まれ、拘束された両手。
 「ほら見ろ、やっぱり居やがったじゃねェか」
 低い男の声が、くく、と笑う。
 「この野郎っ手間取らせやがって」
 (この声、さっきの……!)
 ニレアとギルニーを探して小屋に押し入った2人は、帰ったと見せかけて小屋の近くで様子を伺っていたらしい。待たされた苛立ちとまんまと獲物が手に入った満足感が気配で伝わってくる。
 「大人しくしとけよ。騒いだら殺すぞ?」
 身体の自由を奪われている恐怖。それを、間近で聞こえる荒い息遣いが増していく。
 いやだ。
 いやだいやだいやだ!
 恐怖で思考が真っ白になって、感情が身体を支配していく。
 こんな、こんなのは、いやだ!
 「……ニレア?」
 小さく、ニレアを呼ぶ声がした。
 なかなか帰ってこないニレアを心配してスフィラが様子を見に出てきたらしい。
 「どこ? どうかした?」
 スフィラだ!
 「ヴ――――――――――ッ!!!」
 助けて! スフィラ! 助けてっ!! 
 「この野郎っ!! 黙れっ!!」
 「ニレアっ!?」
 「ちぃッ!!」
 真っ直ぐにニレアの声のする方に走ってくるスフィラ。
 押さえられてもがくニレアの目に映ったのは、男達の手に握られた鈍い刃物の輝き。
 「めんどくせえ、コイツもあいつも殺(や)っちまえ!」
 ニレアの目の前で、男が一人、ナイフを片手にスフィラに踊りかかっていく。
 その刃で。
 血に染まった義兄さんのように。
 スフィラが……殺されてしまう!
 「いやぁあぁあ――――――――――っ!!」

 その瞬間、何が起こったのか、誰も判らなかった。
 ニレアの絶叫と共に、爆発した光。
 視界はすべて白に塗りつぶされ、爆風にも似た強い衝撃波でスフィラと男達は吹き飛ばされた。
 光にくらんだ目が見えるようになった時、スフィラがそこに見たのは、座り込んだまま何が起こったのか判らない、といった風情の男達と、何事も無かったように微かにざわめく森の木々。
 「……ニレア?」
 呼んだ声は風の音に掻き消されて。
 どんなに探しても、ニレアの姿は、もう、どこにも無かった。
 

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