1章<逃亡> ― 4、スフィラ

 
 道も無く、誰も訪れない森の奥深く。ぽっかりと開けた小さな空き地にその小屋はあった。
 駆け続けてきた馬は、ようやく歩を緩めて小屋の前で立ち止まる。
 「ニレア……、スフィラを……呼んできて……くれ……」
  ずるりとギルニーの身体が崩れた。ニレアが伸ばした手も虚しく、力を失ったように落馬する。
 「義兄さんっ!?」
 地面に仰向けに横たわったままギルニーは動かない。
 慌てて馬から下りてギルニーを抱き起こそうと背中に回したニレアの手が、ぬるりと濡れた。
 「……っあ……っ!?」
 その手を濡らしたのは、不吉な赤い色。
 紛れも無くギルニーの血。
 「義兄さ……ん、義兄さんっ!?」
 「……ニレア?」
 不意に後からかけられた、静かな声。
 小屋の主をニレアは涙に濡れた瞳で見上げた。

 ばちん、と薪が爆(は)ぜた。
 倒れたまま動かないギルニー。その背にあったのは、切り裂かれた長く深い一筋の傷。
 処置が終わり寝台に寝かされたギルニーは荒い息をしている。
 傷と出血のせいで熱が出ているらしい。 
 「しかしまあ、よく、そんな身体でこんな所まで……」
 血に染まった手を洗いながらスフィラは呆れ顔で呟いた。
 「いくら頑丈だからって無理にも程があるよ」
 スフィラは腕の良い薬師(くすし)だ。
 人嫌いでこんな誰も来れないような山奥に住んではいるが、自分で薬草の採取から調合、傷の縫合から骨接ぎまで何でも行う。その腕を頼る者も多い。
 月に何日かだけ街に下りてくるスフィラと義兄がどうやって知り合ったのかニレアは知らない。けれど、この物静かな薬師と義兄が、互いを唯一無二の友だと思っている事は知っていた。
 2人で馬で遠乗りするようになってから、ギルニーは、ニレアを、森の奥に住む自分の友の許へ伴うようになった。
 黒く長い髪に紫水晶の瞳、風に揺れる若木のようなほっそりとした佇まい。女性のような優しい風貌を持つ彼は、その腕と相俟(あいま)って、女にも男にも人気がある。
 ギルニーに初めて引合わされた日から、ニレアはその静かな微笑や思慮深さを感じさせる語り口調にすっかり好きになった。
 スフィラもニレアを気に入って、遠乗りで小屋を訪れると、いつも喜んで迎えてくれる。
 「……ニレア」
 静かな声でスフィラが問い掛けた。
 「どうしてギルニーがあんな傷を負ったのか、話してくれるね?」
 いつもと変わらない表情。けれど、その声は低く、感情を抑えるように抑揚が無い。
 友を傷つけられ、滅多に怒らない彼が、怒っていた。
 「……義兄さん、斬られたの」
 ぼんやりとニレアは呟いた。
 「叔父さんと、義母さんがね、剣をもっててね、雷が鳴っててね……」
 「……ニレア?」
 「お皿落として、お菓子も落ちちゃって、義兄さんのティーポットも割れて――」
 ははは、と、力無い笑い声がニレアの口から漏れた。
 「剣がね、真っ赤でね、義母さんがね、笑ってて」
 「――ニレア、もういい、判ったから」
 何も言わないでいい、というスフィラの声も届いていないようだった。
 言葉を紡ぐニレアの虚ろな瞳から涙がこぼれる。
 「お父さん、斬られて、倒れてたの――」
 「ニレア!」
 両肩を捕まれ、揺さぶられながら、ニレアは笑い続ける。
 「動かないの。一緒にお茶飲むって言ってたのに。倒れて、そのまま――」
 笑い声が止まり、悲鳴のような嗚咽が口からもれた。
 「お父、さんっ……!」
 俯(うつむ)き、声を殺して泣くニレアの肩を、そっとスフィラは抱いてやった。
 何も言わない、ただ暖かい腕の中で、ニレアは声が枯れるまで泣きつづけた。



 

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