1章<逃亡> ― 2、惨劇

 
 「お父さん、おっそいなぁ〜」
 台所のテーブルについて入れてもらったお茶を飲みながら、ニレアは足をブラブラさせた。
 「一緒にお茶するって言ってたんでしょ?」
 「はい、話が終わったらすぐに行く、と仰られました」
 執事が静かに微笑む。
 居間で優雅にテーブルについて飲むお茶も嫌いではないけれど、こうやって、料理人や執事たちがわやわやといる台所が、ニレアは好きだ。
 幼い頃母を亡くしたニレアを、娘のように、孫のように、慈しんで育ててくれたのは、ルディーン家に仕えてくれているみんなだったから。
 「話って、叔父とだろ? 何かなぁ……」
 あからさまに眉をしかめてギルニーは一口お茶を飲んだ。
 一年前、嫁いだ母についてルディーン家に入ったギルニーは、あっさりとこの家にとけ込んだ。
 すらりと背の高い見た目も悪くない彼は、性格も真っ直ぐで、曲がったことが嫌いで、ちょっと頑固で、ユーモアもあって、庶民的で……。要するにナカナカの好青年だったのだ。
 ルディーン家に仕える人々に好感をもって迎えられた彼はニレアともすぐ仲良くなった。
 ギルニーにとってニレアは、素直で真っ直ぐで、可愛くて、眩しい、「義妹」。
 ニレアにとってギルニーは、カッコ良くて、優しくて、自分を子供扱いしない、ちょっぴり憧れの「義兄さん」。
 父と義母も仲は悪くなく、ルディーン家はとても平和だった。
 「母さんと、父さんと、叔父と……、えーっと、何人いるんだ?」
 「お茶持ってくの?」
 カップを出し始めたギルニーを慌てて執事が止めようとする。
 「お茶なら私がお持ちしますから」
 「いーよ、どうせ叔父にも挨拶しなきゃならないし。こんな長い時間話してれば喉もかわくだろ?」
 「あ、私も持っていく〜」
 お茶を飲み終えて2人とも暇になったらしい。
 優しく気持ちのいい兄妹の姿に微笑むと、執事はお茶の支度を整えて2人に手渡した。
 「皆様書斎におられます。よろしくお願いしますね」
 「はぁーいっ」
 バスケットに入った茶器とポットはギルニー、お菓子はニレアの担当。
 書斎のある2階へと向かう途中、窓の外に響く雷にびくっとすると「怖がりだな」と微笑まれて、ニレアはムゥとふくれて、それがまたギルニーの笑いを誘った。
 屋敷の2階、右側の4つある部屋の一番奥が父の書斎になっている。夕立のせいで薄暗い廊下の突き当たりにそびえる大扉は、なんだか闇が口を開けているように見えた。
 ドォーンと大きく響く雷。近くに落ちたのかもしれない。
 「お父さん、お茶持ってきたよー。入るよ?」
 声をかけて扉を開いた。
 そこには、闇がわだかまっていた。

 灯りのついていない薄ぐらい室内。
 空を走る稲妻、その光に瞬間的に照らし出されたのは。
 部屋の中に立ち尽くす男と女。
 立ち尽くす男が持つ、光を反射して鈍く輝く細長いもの。
 男の足元にわだかまる黒い闇。
 稲妻の光に浮かび上がった女の顔、その口元にうっすらと刷かれた冷たい微笑み――。
 ごとん、とニレアの手からお菓子を盛った皿が落ちて、床にばらばらとこぼれた。
 「お、とう、さん?」
 「ニレア……、にげ……ろ……」
 呻きにも似た小さな呟きは、それも、最後の言葉は聞こえないほど小さくなって、消えた。
 「ディクトの娘か」
 「そう、ルディーン家の血を引く最後の1人」
 男の声に女の声が重なる。
 「後々やっかいだな」
 「そうね……」
 非現実的な光景の前で呆然と立ち尽くすニレア。
 悲鳴めいた叫びと共に、ギルニーの手からバスケットが落ちた。
 「母さん! ……グレサム、何てことを……っ!!」
 砕け散る茶器。男に殴りかかっていったギルニーは簡単にあしらわれ、突き飛ばされる。
 「どうしてだ、母さんっ!」
 「どうして? 変なことを聞く子ね」
 ふわりと微笑む美しい顔。
 「私はグレサムとこの家が欲しかったの。それ以外に何かあって?」
 「なっ……!」
 平然と言い放った母にギルニーは言葉を失くした。
 「そういうことだ。お嬢ちゃん、悪い所に来ちまったな。大人しく下で待ってれば良かったのに」
 ゆらりと男が動いた。赤く鈍く輝く剣。
 「ふふ、知ってるわよ……。ギルニー、お前も、その娘が欲しかったんでしょう? 素直になりなさい。あなたが手に入れるならその娘をあげるわ。チャンスは一度しかないわよ?」
 あまりにも現実離れした母の言葉だった。
 あまりの母の変わりよう、それに力任せに殴られたようなショックを受けたギルニーの頭に、その昏(くら)く甘い囁きが蜜の毒のように染みこんでゆく。
 魅入られたように、表情を失くしたギルニーの瞳がゆっくりと動き、一瞬ニレアを捕らえた。
 「……ぁ……」
 掠れた小さな声と共に、ニレアは今だ呆然としながらも、知らず知らず1歩後退(あとず)さる。
 「……時間切れだ」
 男が剣を振り上げる。 
 「ディクトの所へ行きな、お嬢ちゃん」
 見開いた瞳に映る、血に塗れた赤い輝き。
 「……ニレア――っ!!」
 目の前に影が覆い被さるのと突き飛ばされたのは同時だった。
 「ギルニー!?」
 「ちぃッ!」
 女の声、舌打ちする男。一瞬の後に腕を捕まれ引きずり立たせられる。
 「逃げろ! ニレアっ!」
 引きずられるように走り出し、廊下を駆けぬけ、階段を転げるように降りる。
 パニックの中、背中を追うのは殺意と死の恐怖。
 玄関の扉を開け放つと、執事が驚いたように手綱を持ったまま振り返った。
 「ギルニー様、どうし」
 「貸せぇッ!!」
 馬に飛び乗ると、ギルニーは力任せにニレアを引っ張り上げた。
 「ギルニー様っ!!」
 馬は、悲鳴のような執事の叫びを後に、ギルニーと呆然としたニレアを乗せて走り去った。
 

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